漫画の歴史の分岐点
私が10代の頃、漫画家アシスタント時代に発明したスクリ-ント-ン画法から時代が変わっていった。
日本の伝説のロックバンド、ハッピ-エンドのジャケットを伝説の漫画家宮谷一彦がデザインした。

この絵はそううまく出来なかった。
後年、私は後輩から伝説のアシスタントと言われるはめになった。
こんなペン画を50枚も描いただろうか。宮谷一彦が最も可能性ある漫画家と踏んだ私は3年間休まず仕事をした。

BS放送で紹介されたスクリ-ント-ン2重貼り画法
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スクリ-ント-ンを最初に削ったのは後輩のひろき真冬君。
彼は私よりも師匠よりも絵がうまくなった。
後年フランスでオタク以外の漫画家20位以内にランキング入りした。
高砂壮は3年間土日休み無し。
食事以外の時間無し。
2週間に一度は徹夜。
完全なる灰色の青春。
私の青春は漫画の土台を築くために滅んだのだ...と書けばカッコイイが実は全然違う。
ただ3年間居ただけ。努力無し。「編集部へ持ち込む」という概念を知らなかっただけ。
持ち込めば10代で漫画家になれたのにね。

後年「現代漫画の背景画を確立した人です」と後輩の夢野君が編集員に紹介してくれた。
彼は「宮谷派は一心同体だからな」と言った。師匠は厳し過ぎたけれど皆一丸となって徹夜で漫画を描いた。
やめればいいのに、いつまでも居る。それほど師匠の初期の漫画が好きだったのだ。
漫画を文学と並ぶレベルに押し上げたのが宮谷一彦だった。
後年、名編集長赤田氏に真実の全てを告げたため伝わり、師匠はがっかりしたと思う。私を評価したぺ-ジは削除された。

下段の絵はザラ紙印刷の雑誌からのコピ-。